駅前第四ビルが愛した植樹

何も持たない君に、武器はもう必要ない。

駅前第四ビルの憂鬱な日常

どうやら僕は悪質なガンに、体じゅうを蝕まれているようだった。

駅前第四ビルの憂鬱な日常

地下四階から、地上二十五階に至るまで、残らずガンに浸食されている。末期的な症状であることは、僕自身も十分に自覚していたが、だからといって嘆く言葉もさらさらなくて、沈黙のままで唖然とし、いつものように精いっぱいのポーズを気取って、我慢と忍耐の時間をひたすら送るしか術がない。

「ミニマリストA子のたった26年間の人生」からの続きです。前の記事から読んでもらったほうが分かりやすいですが、この記事だけでも完結しているので、問題はありません。

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この記事は強烈に長いです。しかも象徴的な物語なので、伝えたいことが、私が未熟なせいで伝わらない可能性があります。

覚悟して先へ進んでください。期待倒れに終わった場合、深く謝罪しますので、どうぞお許しください。

隣に建つ駅前第三ビルはなんと、四方の壁を揺らすほどの迫力で、絶望的な僕に向かって今まさに、説教を始めようとしていた。

「四{よん}ちゃん、僕らは決して有り触れた存在じゃないはずだ。どこまでも孤高なビルだと言い換えても差し支えない。だからこそ、地上から抜きんでた姿を保ちながら、周囲を見下ろす立場をいつまでも維持していられると信じ切って、どこまでも生き抜く精神力こそが、最も大切なことなんだ」

僕らビルを生物学的に分類すれば、どうやら植物ということになるらしい。

だから僕の正式な名称は駅前第四ビルである。有り触れた名前でしかなかったが、親しい友人たちからは、四{よん}ちゃんなる愛称で呼ばれていた。

隣に建つ駅前第三ビルは、それこそかなりの説教好きで、放っておくといつまでも高圧的な物言いを改めない。

加えて僕のほうにしても、黙ったままで聞き流すことが得意とは言えず、駅前第三ビルの意見に対して、すぐに強い口調で言い返すのが常だった。

「みんなが僕らを見上げているのは、確かに事実さ。だけど内部を侵略されているのも、紛れもない真実じゃないか」

僕の反論を耳にすると、駅前第三ビルはいきなり「四{よん}ちゃん」と叫んで、きつい口調で僕のことをたしなめた。

「沈黙こそが金さ。やがては報われる。何も言わず、どんな些細な事情ですらも構わずに、ただ見下ろし見続ける、それが僕らの宿命だと悟るべきなんだ」

駅前第三ビルは、どこまでいっても聖人君子なビルだった。

僕に対しても数々の名言、助言の類を与えてくれる。それからすれば僕にしたって、この世で唯一頼りになる存在だと、いつも感謝しているというのは本当のことである。

ただし駅前第三ビルのことを、親友と呼ぶには僕らの間には距離があり過ぎた。

どう考えても、国道二号線は道路幅が広すぎる。しかも駅前第三ビルの言い分には、納得しきれない論理が存在し、僕の鉄骨を根底から揺るがしかねない、厄介な状況がこのところずっと続いていた。

それからすれば、沈黙は金ではなくて、無力の現れとしか取りようがなかった。周囲の状況と、駅前第三ビルがかざす正論を前にして、遣り切れない思いに苛まれ、矛盾した感情を内装の隅々にまで忍ばせている。

絶え間ない憤りと葛藤の権化を、三階当たりのテナントスペースに秘めながら、今日もまた押し黙ったままで、ただ地面を見つめながら時の流れるままに、二十五階建ての我が身を小刻みに揺らすだけの日常をせっせと送っていた。

駅前第三ビルほどの悟りを開くこともできず、煩悩の中にひっそりと無感動にそびえ建つ、傍観だけしか能がないビル、それが僕の暮らしぶりであり、駅前第四ビルの真の姿だと言われても、反論の余地はどこにもなかった。

もちろんガン細胞に侵されたままでいることを、僕にしたって決して良しとはしていない。風が吹くと基礎部分を支点にし、できうる限りのストレスを壁じゅうにため込んで、前後左右に大きく振動することによって、ようやく心の均衡を保っているというのが現状だった。

それに比べたら、駅前第三ビルの落ち着きようと思考の柔軟性には、ただひたすら、やっぱり驚かされる。

「まさに芸術だね。彼女の前では、僕なんて何の抵抗もできないし、窓という窓に白いタオルを掲げて降参し、そこらじゅうのドアをすべて開け放って、塵でも埃でも、どんなものでも受け入れたい欲求に、ついつい駆られてしまうんだ」

駅前第三ビルはいつものように、四方の壁に日差しを載せながら、僕に向かって雄弁に語り出していた。

駅前第三ビルは僕なんかよりもずっと、悟りきったビルであることは確かだが、ときおりオーバーな言動を吐き、論理に建設的な傷みが生じている。

なのに全くと言っていいほど、彼には自覚がない。だからときおり僕との間に、不規則で予想外な感情が生じていまい、やがてそれがすれ違い、心ならずも行き過ぎた口論を、僕らが戦わせることも、決して珍しいことではなかった。

「あれを見てごらんよ。ガラスのドレスを纏う姿には、惚れ惚れするほどの気品を感じてしまう。丸みを帯びた体のライン、隅々までの曲線が空気を割って天空へと突き抜ける。あれを見たら、誰だってうっとりするさ。思いもよらず、至福の海に身を投げたくなるほどの心地よさを貰ってしまう」

駅前第三ビルは斜め後ろに見える、ファッションビルをいたく気に入っている様子だった。

円柱の形をしているため、僕らは彼女を丸ビルと呼んでいた。

「どんなに好きになったとしても、僕らビルには無理な願いでしかないよ。ビル同士は決して近寄れない秩序の中に暮らしている、そのことを十分に認識するべきなんだ」

愛情は労力の無駄遣いだ。行動の空回りの中にしか存在しない。一言で言ってしまえば、勘違いの最たるものだと言い切れる。

「三{さん}ちゃん、諦めろよ。でないともっと辛くなる。体じゅうを絶望のカビに侵されて、耐用年数にも支障が出るような事態を招く可能性だってある」

残酷だとは思いつつも、駅前第三ビルに向かって因果を含めようとした。わずかな希望も与えないように語尾を強めて言い切った。

かわいそうだったが是非もなく、胸の内でこうべを垂れて、周囲の窓を緩めながら、駅前第三ビルの心情を心から哀れんだ。

こんなときにはいつも、奇妙な自己嫌悪を感じてしまう。内部の電気配線にまでひどい支障が出るほどの、憂鬱な気分を味わっていると言い換えても構わない。

友人をあしざまに罵るのは心地よいものではなかったし、ビルの限界を説くビルは、常に常識という足場の上にしか、建設は不可能だと言われている。

だから駅前第三ビルを哀れむ僕のほうこそ、鉄骨の数を疑われてもしょうがないほどの思考回路を持ち、可能性を頭から否定する全く夢のない建物であることは間違いなくて、情の薄いビルだと陰口を叩かれたとしても、言い返す言葉もないというのが、今の僕の正直な感想だった。

だけど僕は、自分の考えを改める気はさらさらなかった。

僕らには移動する手段がないのだから、愛をはぐくむ上で、障害となるべき事柄が多すぎる。しかも改善の余地が全くないときてるんだから、絶望的である。

当然キスも、愛撫もセックスも叶わない夢だと断言できる。

実際に愛情の手応えを探る手段は皆無、全身を隈無く確かめ合うことも不可能だった。

スキンシップとかコミニュケーションを抜きにして、愛情を確認する方法なんて、この世にもあの世にも、絶対に存在しないと言い切れる。だから僕らビルの間には、恋愛なんてものが芽生える道理は当然なくて、勘違いと行き違い、住所の間違いを起こすくらいが関の山である。

「いつものことながら、四{よん}ちゃんにはひどく失望させられたよ。ロマンチックな考え方が欠如したビルなんて、辛辣な言い方を許してもらえるんなら、建ってる意味さえも疑問視されてしかるべき、イルミネーションが欠乏してるとしか思えない。軽蔑を含んだ同情っていう感情を、きっちり、しかも念入りに、それでも足りずに丁寧に包装して贈らせてもらうよ――だけど言っとくけどね、この恋が成就しないということくらい、僕だってオープンしたてのビルじゃないんだから、十分に分かってるつもりさ」

駅前第三ビルは、かなりの不満を壁じゅうに滲ませながら吐き捨てた。

「承知してるんなら、なぜ気持ちの悪い科白を連発するんだ。僕を軽蔑する? 上等だね。その調子だと、無駄を鉄筋に仕込んでその上に、丹念に執念深さで練られた外壁でもまとってるんだろ。哀れで孤独なビルを気取っているつもりなら、それこそ滑稽だ。お笑いぐさとしかいいようがないさ」

気分が悪かった。駅前第三ビルが虚飾に満ちた言動を吐くたびに、一階部分の足もとが不安定になって、上の階が予想以上に揺れている。

僕はしばらく、駅前第三ビルと会話を交わさないようにしようと、心に決めた。南北に位置している壁を輝かし、人懐っこい笑みを浮かべて語りかけてきたとしても、しょせん僕らは分かり合えない考え方を、内装の隅々にまで宿している。

無駄口にはもううんざりだったから、あっさりと無視を決め込んで、前を走る鉄の塊に注目した。

心ならずも、隣{りん}ビルとの関係には終止符を打った。

僕らはどこまでいっても、不動の地位に甘んじるビルでしかない。それ以上でもそれ以下でもなくて、見つめること以外の手段を、残念ながら神から与えられてはいなかった。

それを自覚していない、ビルらしくないビルの存在を見ているのが、僕にはどうしても我慢がならず、思わず窓という窓に力を込めて、固く外気の進入を防ぎながら、自分の建屋に引きこもったままで応答をすべて絶つことにした。

そんな僕らの周囲が、次第に変化する。

夜半から風が強くなってきた。雲の流れが速くなり、壁の表面を生温く包んで、不快な湿気に溢れていた。

気候は気まぐれに僕らを翻弄し、地面に深く埋まった基礎部分でさえも揺るがしかねず、驚くほどの猛威を振るいながら、立ち並ぶビルというビルを、残らず手玉に取って悠々としていた。

「嵐が来そうだね、四{よん}ちゃん」

駅前第三ビルはなんと、僕に対して気安く話しかけてくる。

僕にとっては意外な行動だった。僕らの間にはビル的な気まずさが、いまだに根強く残っている。にもかかわらず、なぜ駅前第三ビルは平気な顔をして、声を掛けてくるのだろうか。

ひょっとすると、外壁が類を見ないほど分厚くて、壁の皮が極めて厚い神経しか持ち合わせていないのかもしれない。

僕には駅前第三ビルが、厚顔無恥で恥知らずで図々しいだけの建物だとしか思えなかった。

「まだすねているのかい。いい加減にしてくれよ。もう子どもじゃないんだからね。耐用年数の半分を、ゆうに過ぎたビルのやることじゃない。気まずさは忘れることで克服できる。他人から気を遣って貰ったら、大人しく主張を飲み込むくらいの室内空間くらい、はなから用意しておくべきだと、忠告しておくよ」

駅前第三ビルは苛ついた声を出した。僕はそれでも黙ったままだ。

確かに僕は、過去の経緯{いきさつ}を屋上の片隅に思い描きながら、自分自身の幼さについて、多少の反省を強いられているのかもしれない。

けれどもいったん樋から流れ出た雨水は、どんなことがあっても二度と飲み込めない。強固に練り上げられた意志と床板が、地下四階から最上階に至るまで、深く染みついているのをむやみやたらと自覚した。

「まあいいさ。ふてくされたままで、ずっと独りでいればいいんだ」

駅前第三ビルに言われるまでもなく、僕らのようなビルは常に孤独だ。

寄り添う相手もなくて、ガン細胞と共に生きることでしか、生命の目的や生まれてきた意義を見いだすことなどできずにいる。

それからすれば駅前第三ビルのように、グラマラスな美ビルに対してほのかな好意を抱くことくらい、もちろん罪とは言えなかったし、近所のビルからとやかく言われるような筋合いなんて、本当はどこにもないはずだった。

分かっている。

間違っているのは、他でもない僕のほうなんだ。

だけど僕は、意固地になっている。

ストレスのせいにはしたくなかったが、建つことだけを強いられるビルの気持ちにもなってほしいと願うのは、ビル特有の我が儘で身勝手な行為なんだろうか。

ただそれだけのことで、子どもだと罵るのが、適切な大人のビルの対応だと言えるのだろうか。

ずっと独りでいればいいなんて、そこまで他のビルをさげすむ言葉を簡潔に、しかも憎々しげに浴びせられる神経には唖然とした。

僕の外壁は四方とも角が立ち、柔軟性に欠ける外観だと他人に指摘されるまでもなく、とうに僕自身が自覚している。

性格についても、室内空間は多大な影響を及ぼしているようで、確かに僕には丸みがない。応用性にも欠けるし、インテリアもいまいちだと白状する。

だとしてもだ。

では駅前第三ビルが先進的かつ、独創的なビルかと言えば、これには明らかに疑問符が付く。

もともとは駅前第三ビルにしたって、僕と同じ設計事務所が制作を依頼され、数あるゼネコンのうちの一社が工事の権利を落札し、現場監督にしても同じ人物だったに違いないのだから、僕が幼くて、駅前第三ビルだけが大人だという論理自体がはっきり言って、子供じみた考えであることは明白だった。

愛情を理解しろなんて偉そうに言うくせに、建つだけの運命を義務づけられた僕らのジレンマを、決して分かろうとしないのは、果たして繊細でかつ、孤高なビルの心情だと言えるのか。

大声で怒鳴ってやりたい気分を懸命に押し殺している。

こうまで我慢を重ねて、それでも反論を口にしないのは、やっぱり僕らは別の場所へ移動できないという、逃れられない宿命を背負っているからだった。

ここで彼と容易く諍いを起こせば、一生涯同じ場所で、同じ相手と気まずい思いに苛まれるのは明らかだった。

それでも僕はやっぱり素直になりきることができず、できうる限りの努力を周到に準備しながら、駅前第三ビルとは一定の距離を置こうと考えた。

もちろん実際の距離ではなくて、あくまでも心の位置を遠ざけようと努めていたのである。

やがて日が暮れた。

周囲のすべてが、濃い灰色へと染まってしまう。

景色の中には強い風が混ざっており、ビルとビルとの隙間をまるで、僕らの関係を現すようかのように、乾ききったうなり声と共に行き過ぎていた。

そのうち雨が降りだした。

横殴りの雨だ。

真っ暗で何も見えないはずの空には、怪しげな雲が掛かっている様子が感じ取れた。シミのようになって暗闇からひっそりと浮かび出た姿は、あまりにも異様、おぞましさが基礎部分の土に混じって上ってくる。

そこで僕ははたと、困ってしまう。

暴風雨に晒されながら建ったままでいるのは、僕らビルにとっても好ましい状況ではなかった。こうなったら愚痴の一つもこぼしたくなるのは、当然だといえる。

これが晴天であり、風も穏やかな日中ならばいざ知らず、日が落ちて暗闇をそばに置き、脅すように吠える風や雨に取り囲まれながら、わずかな楽観も許されない状況が、すぐそこに迫っているのだ。

まさに最悪である。

嵐はビルにとって、恐ろしい天敵の一つであった。

地震はもっと厄介だが、備える間もなく被害に遭うわけで、潔い恐怖は味わう時間にも乏しくて、あっという間に倒壊への道を転げ落ちるしかないわけだ。

それに比べたら嵐はもっと、残酷にして老獪だと断言できる。

破壊力の比較ではなくて、じりじりと追い詰められるような恐怖感が、暴風雨にはある。しかもそれが、僕は何よりも苦手ときている。

こんな夜なら隣のビル、主に駅前第三ビルとくだらない会話をしながら、やり過ごすのが精神的にも負担が掛からず、壁のひび割れの予防にもなるに違いない。

ところが今回は僕も意固地になっているが、向こうも向こうで、僕と同じように沈黙を貫いていた。

おそらく駅前第三ビルにしたって、嵐に脅されるのが怖いはずで、同じように仲間を欲しがっているのは明白だった。

なのに駅前第三ビルは、子どもじみた態度を悔い改めることもなく、あちこちの雨戸を閉め切ったまま、まるで自閉症ぎみの建物みたいに、僕に対して断じて心を開こうとはしなかった。

なんて姑息なビルなんだ。

仕方なくたった独りで、孤独なビルを気取りながら堪え忍ぶしか方法はなかった。

鉄骨の隅々にまで行き届いた注目を、四方の道路へ向けることで、暴風雨から貰う脅迫を幾分でも、和らげようと試みた。

そんなときにふと、目についたものがある。

ものといっても品物ではなくて、それは確かに呼吸をしている。

呼吸をしている限りは、生命を宿していると考えて間違いなかった。移動する手段を持たない、まるで僕らビルのような生き方を選んだ生物が、僕の周辺には多数、埋まっていた。

彼らはしっかりと立ち、しなりを持って環境に染まり、どんな場面でも馴染むことを決して忘れようとはしなかった。

地中へ深々と埋まった根っこの部分には、驚くほどの生命力がある。

地上への執着と、沈黙に充ち満ちたエネルギーが迸るように感じられ、彼らを引く抜くのはどんな道具を用いたとしても、おそらく容易ではない。

いくら倒そうとしても、そう簡単に倒れるような、ひ弱な生き物とは一線を画していた。

これは僕らにしたって、同じである。

ビルにとって、基礎工事ほど大事な工程はないと言い切れる。巨大なビルを根本{こんぽん}から支えるためには丈夫な地面がいるし、強固な地質を維持するために、細い鉄骨のような神経を地中へ深々と、張り巡らせる必要があった。

ところが彼らには鉄骨などは、必要ない。

水分を含んだ生きた木材は細くとも強く、地面を柔らかく強靱に練り上げる。まさにしたたかな行為である。

根っこから伸びた木材は地上まで突き抜けて、そこでゆっくりと二酸化炭素を吸い込んで、代わりに酸素を周囲にまき散らしているのである。

それが彼らにとっての生の証であり、義務でもあった。

しかし彼らはあくまでも無口で、余計な感動も怒りも、根っこの部分にため込んで悠々としている。

その姿はまさにビルが理想とするたたずまいであったので、なぜか気になって親近感がわき、細々{こまごま}とした観察をこの日の僕は続けていた。

僕が建つ場所から東南東に十メートルほど行くと、そこには彼女がいる。

なぜ僕が彼女のことを女性だと感じたのかは、はっきりとした理由が見あたらない。

駅前第三ビルはファッションビルを女性だと確信して、決してそのことに対して疑いを抱かない。だけど性別を決定する明らかな証拠は、どこをどう探してみても見つからないというのが、現実だった。

けれども駅前第三ビルのあっぱれな決断には、僕にしたって賛同できる。

性別は理屈ではない。姿形ではなくて、感性で判断するものだ。惹かれる感情には興味とはまた別の、強い執着が潜んでいる。

だから僕にしたって彼女を女性だと、潔く決定するしかなかったわけだ。

ただし今はとにかく、迫り来る暴風雨の心配をするべきだった。

嵐が弱まるような気配は一向に見えなかった。急に心細くなって、そこらじゅうの窓を締め付ける。それでも足りずに、壁という壁を小刻みなリズムで震わせた。

どくどくと樋を流れる濁った雨水にも、赤茶けた錆びが混じってしまい、独特の臭気が辺りいっぱいに充満していた。

僕は巨大なビルだが、あまりにも臆病である。

けれども十メートルほど先の道路に植えられた彼女は、怖じけるような素振りを一切、見せず、しつこく付きまとう風の嫌がらせにもめげる気配はなく、地上からでは目視できないほどの強靱な粘りで嵐を受け流していた。

かといって風雨が緩んで隙さえあれば、立ち向かう勇気まで見せたのだから、大したものだと感心した。

乱暴な風がいくら彼女を翻弄しても、しなって揺れてそのあと速やかに元の位置へと体を戻す。驚くほどの柔軟さと、優雅で強靱な生命力を兼ね備えていた。

それを見せられる僕は、いやでも彼女を美しいと感じてしまう。

そのうち視界が狭くなり、彼女の周囲、十メートルほどの景色しか見えなくなった。

これはきっと恋である。

しつこいくらいに駅前第三ビルが話していた症状とうり二つだったので、間違いないと確信した。

豪雨がもたらす激しい音は、相変わらず四方の壁を揺らしていたが、恋を知った僕には恐怖など微塵も残っておらず、注目の一切を彼女の仕草に奪われてしまう。

駅前第三ビルが丸ビルに見とれるがごとく、息を飲んで取り込まれた僕は我を忘れていた。それが何よりも心地よくて、時間の概念が薄れていくように錯覚した。

僕を置き去りにして、いや正確に言えば僕と彼女を置いて、時間だけがただ漠然と流れていく。

もちろん時間の経過は、どんな恋愛感情で抗ったとしても、阻止できないことは承知している。ただし彼女のお陰で嵐の恐怖が和らいだのは、疑いようがなかった。

暴風雨をやり過ごすための、最適の対象を見つけたのだと歓喜して、基礎部分にまで熱く滾るような思いを感じ取っていた僕はこうなったら、あくまでも幸せだったと正直に白状したい。

ところがそこで、一瞬、目の前が真っ赤に変わってしまう。

彼女の周りだけが赤らんで、そこだけが周囲から浮き出てしまい、間近にずんずん迫ってくるように錯覚した。

それに驚いた僕は、思わず四方の壁をきつく締め、誰にともなく身構えるしか仕方なかった。

ところが今度は金属を切り裂いたような音が鳴る。意表を突いた音の連続は、空間を振動させながら、四方の壁を理不尽なほどに歪ませた。

衝撃が強すぎて、出入り口のドアを固く閉ざす努力をするしかなった。壁という壁に緊張を混ぜ込んで、音の終点がやってくるのを、ひたすら待った。

基礎部分に力を込めながら、一瞬が収まるのをやり過ごそうと頑張ってみる。

やがて金属音が破裂音に変わり、いきなり周囲が静かになった。それからしばらくして視界が戻る。

すぐさま僕は、十メートルほど先に植えられた彼女の姿を懸命に探してみた。

そこで僕は、予期せぬ声を聞かされる。

悲痛で悲しくて辛く耐え難い、彼女が発した初めての悲鳴がそこにはあった。

この記事のストーリーは象徴的なものです。「私は切符を一気に飲み込んだ」へ続きます。

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