駅前第四ビルが愛した植樹

何も持たない君に、武器はもう必要ない。

人間なんて-そのとき二つの維新が生まれた

明治維新によって、日本という国が根本から変わってしまったのは、誰もが知っています。

人間なんて-そのとき二つの維新が生まれた

当時、活躍した人たちはいつの時代でも、ヒーローに祭り上げられています。

あれ以降、維新と言えるほどの出来事が、この国では一度として起こっていないのでしょうか?

実はそうではありません。

日本全体ではなくて、局地的な分野に限って言えば、維新と同じくらいインパクトのあった出来事は、いくつか起こっています。

1971年はそれがいかにも顕著で、大きな維新が二つも世に現れた年でした。

戦後、アメリカからいろいろな文化が日本に上陸してきましたが、その中でも象徴的な出来事が、1971年7月20日に起こります。

ハンバーガーショップ、「マクドナルド」の1号店が、銀座三越の1階にオープンしたのです。

マクドナルドの成功はただの運ではなくて、必然だったと、後にいろんな分野の人から絶賛されますが、徹底した管理、マニュアル化の時代が、食文化にも訪れたのです。

しかも日本全国、いや世界のどの国へ行っても同じサービスが受けられるというのですから、当時の日本の文化を根本から覆した、まさに黒船襲来と言えるような出来事でした。

日本の食文化はマクドナルドの成功によって、様変わりしてしまいます。

ところが日本の若い経営者たちは、マクドナルドの手法を取り込んで、様々な方法を駆使しながら、新たな文化を生み出していきました。

牛丼、ラーメン、カレーライスなどが先駆けとなり、定食屋、回転寿司、弁当、菓子パン、惣菜などを売る軽食産業にまで今や広がっています。

まさに、1971年、7月20日は、日本の食文化の維新であったと言えます。

1971年に起こったもう一つの維新は、マクドナルドのオープンから18日後に起こります。

銀座のマクドナルドに若者が殺到していたとき、岐阜県中津川にも、若者が大挙して押し寄せていました。

第3回全日本フォークジャンボリーが、当地で行われていたのです。

先日、18歳からの選挙権が認められるようになりましたが、いったいどれほどの若者が政治を、いや日本を変えられると本気で考えているでしょうか。

おそらく、現代の若者は自分たちが即、体制を変革するなんていうのは夢のまた夢、できるはずがないと、あきらめているに違いがありません。

ところが150年ほど前の若者たちは、あきらめなどとという感情とは無縁でした。

明治維新を成し遂げたのは、二十歳台の若者が中心です。それこそ十代の若者にしたって、自分らこそが日本を変えると本気で思っていました。

1971年の若者たちには、まだその機運がわずかに残っていたのです。

とにかく、この年は殺気立っていました。

フォークは元来、アマチュアの音楽でした。しかも体制に反抗するための手段でもあったのです。

反戦を掲げた、高石ともや、岡林信康といった連中が、当時のフォークシンガーの先頭を走っていました。

聴き手のほうも今では考えられないほどの、凶暴性を秘めていました。常にフォークを通じて日本を変えていこうと、彼らは彼らなりに考えていたのです。

今のようにネットやSNSなどを持たない若者たちにとって、主張を拡散させる、もっとも有効な手段が音楽であり、フォークソングだったのです。

ところがいつの時代でも、若者たちは行き過ぎた行動に走ります。

明治維新でも仲間同士が殺し合ったように、このころのフォークのイベントでは下手をすると死人さえ出る、というような危ない雰囲気が漂っていました。

そんな中で、有名な「ステージ占拠、大激論事件」が起こったのです。

第3回全日本フォークジャンボリー・メインステージ占拠の瞬間(音声)動画の再生

原因は些細なことです。

フォークのイベントにもかかわらず、ジャズ系のミュージシャンやシンガーが、メインステージに登場していた、それだけのことが導火線となり、観客の不満が爆発、ステージはべ平連(作家、小田実氏、開高健氏、哲学者、鶴見俊輔氏らが結成した反戦運動グループ)によって占拠されました。

そのまま朝まで討論が続いたというんですから、AKBの選挙どころの騒ぎではありません。

今の若者たちが言葉をナイフと化し、相手に突きつけるような決意を秘めて、朝まで討論を続けるでしょうか。

下手をすれば、暴動も起こりかねないような雰囲気だったと言います。

そこに音楽はありませんでした。

ただ日本を変えたいという熱意だけが渦巻いていました。

ところがあまりにも凶暴過ぎる主張とそのやり方に、時代のほうが彼らを膿んでいた可能性があります。

この日を境に、主張としてのフォークブームは去り、一つの時代が終わりを告げました。

しかもこのとき、次の時代の幕がすでにあいていたのです。

一人の若者がメインのステージではなくて、サブステージで声をからして叫んでいました。

♪♪ にんげんなんて、ららーら、ららららーら~。

♪♪ にんげんなんて、ららーら、ららららーら~……。

吉田拓郎がPA(Public Address System、つまり、音を拡声する設備のこと)の故障にもめげず、今や伝説となった、「人間なんて」を熱唱していたのです。

よしだたくろう 人間なんて

彼は従来のフォークファンから商業主義だと言われ、メインステージに登場するのを拒否していました。

そんな彼がほろ酔い気分で登場した、サブステージで伝説は生まれたのです。

この表現はオーバーでも誇張でもありません。NHKの「その時歴史が動いた」のスタッフに任せれば、もっと大げさな表現を使うでしょう。

にんげんなんては、まさに呪詛です。

延々、繰り返す呪詛のせいで、観客は我を忘れて熱狂します。

彼がステージを降りたあとも「吉田拓郎、出てこい」コールは鳴りやまず、観客はそのままメインステージへ乱入したと言います。

恐ろしい光景だっただろうと想像します。

しかしこのとき、当の吉田拓郎は、小室等らと共にさっさと会場をあとにしていました。

その後も、吉田拓郎はこのイベントに出ることは一切、ありませんでしたし、後日「俺はフォークは暗くて嫌いだ」とも言っています。

彼を明治維新の人物にたとえるならば「長州の天才、高杉晋作」ではないかと思います。

それから4年後の1975年、吉田拓郎はかぐや姫らと共に、音楽界の明治維新ともいうべき、あの「つま恋での野外オールナイトライブコンサート」を成し遂げます。

アメリカで1968年に行われた、20世紀最大のコンサート、ウッドストック(動員観客数40万人規模)ほどではないにしろ、日本では空前絶後、これから先も、決してお目にかかることのない、超巨大コンサートでした。

まさにその時、歴史は動いたのです。

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