駅前第四ビルが愛した植樹

何も持たない君に、武器はもう必要ない。

幸福と本能の葛藤

彼と彼女がおのれの幸福のために、本能と懸命に葛藤した数時間の物語です。

幸福と本能の葛藤

暗くてじめじめした場所でした。隙間から差し込む日の光が邪魔でしかたなくて、まるで亡者が踊りだしそうな暗闇でした。そんなところが彼の住処だったのです。生きるということは、彼にとっては試練以外の何者でもありませんでした。生まれたときから自立する必要があったのです。親兄弟に親類縁者、それらは彼にとって、何の意味も持たない呪文でしかありませんでした。

彼はいつも空腹でした。生きるために食らうこと、それしか頭の中にはありませんでした。ところがある日、彼は彼女に出会います。彼は彼女のことを、美しいと思いました。彼女は見たこともない色彩を体の上に載せていました。どんな暗闇に置かれたとしても、彼女の色彩はひときわ光り輝くような気がして、彼は彼の肉体と比較し、限りないほどのあこがれを感じました。

けれども彼はどうしようもなく、空腹だったのです。彼女を食らうかどうか、彼は真剣に悩みました。美しい羽根に描かれた模様をじっと眺めながら、彼は彼の空腹をひたすら我慢することにしたのです。やがて数時間が経ちました。彼はそれでも飽きずに彼女の姿態を見続けていました。するとどうでしょうか。彼女が苦しそうな息遣いのまま、彼に話しかけてきたのです。

「お願いです。クモさん、私を助けてください。一生のお願いだから、この巣から解き放ってください。もし助けてくれたら、どんなことでもしてあげます。あなたの一生、奴隷になっても構いません」

彼女の言葉はまさしく、懇願でした。けれども真実ではありません。生をつかみ取ろうとする本能はいつでも、必死さにあふれています。けなげな彼女の言葉を聞きながら、彼もまた懸命に空腹と戦っていたのです。彼はどうしようもなく、彼女を食らいたかった。お腹が空いて仕方がなかったのです。だからどうしても解き放ってやることが、できなかったのです。

同時に彼は、彼女がこのままずっと彼のそばにいてくれることを望んでいます。今まで感じたことのない感情でした。肉親のことでさえも愛せなかった彼が、初めて愛したのが彼女だったのです。それは狂おしいほどの感情でした。食らいたいが、決して失いたくない。二つの両極端の感情に八本の足がそれぞれ、引き裂かれそうな思いを味わっていたのです。

しかし時の流れは彼らにとって、残酷でした。数時間後、彼女の息遣いは弱くなり、美しかった模様の羽は、ピクリとも動かなくなってしまったのです。彼の巣の中で横たわる彼女は、静かに息を引き取りました。それを見届けた彼は、ひたすら慟哭します。本能を憎みました。なぜ解き放ってやらなかったのか。彼は彼なりに、後悔と絶望を味わっていたのです。

彼の悲しみはいつまでも続きました。決して消えることはないだろうと、彼自身も思いました。けれども彼は、空腹だったのです。どうしようもなく、お腹を空かしていたのです。だから彼は彼女を食らいました。焦がれ続けた彼女の羽根を、あこがれ続けた彼女の体すべてを、一欠けらも残さずに食らったのです。そのあと彼は我を忘れて、巣の中で泣きました。どうしても抗えない本能を、嫌いました。卑しい自分をさげすみました。彼女を食らった自分を決して許さないと心に誓ったのです。

いつ果てるともなく、彼の悲しみは続きました。彼のむせび泣く声だけが、暗闇の中に響いていました。

けれども彼は空腹だったのです。どうしようもなく、お腹を空かしていたのです。だからまた、彼女が巣にかかるのを、彼はひたすら待つことにしたのです。

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