読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

駅前第四ビルが愛した植樹

何も持たない君に、武器はもう必要ない。

子供から回復できない女と黄色いハイヒール

彼女の名前は西上小春(にしがみ こはる)と言います。

子供から回復できない女と黄色いハイヒール

もちろん、仮名です。

西上社長の邸宅は、関西でも有数の高級住宅地である芦屋にありました。

北には六甲山を望み、南に大阪湾を従えています。山のほうから海に向かって緩やかに傾斜し、深緑の海が優雅なだけの風景に、雄大な色を混ぜる役割を担っていました。

「得意先の社長の娘は、子どもから回復できない女であるらしい」からの続きです。

www.8ssan.com

前の記事から読んでもらったほうが分かりやすいですが、この記事だけでも完結しているので、問題はありません。

社長のお嬢さんを誘うために、これから毎週土曜日、この場を訪ねる必要があるのだと思うと、私にしたって感慨無量です。

インターフォンで呼びかけました。すると、しばらく待つように言われました。

やがて門扉の開く音がします。体の向きを変えると、玄関脇に立つ西上社長と、若い女性の姿が目に入りました。

すかさず駆け寄って挨拶をします。

「おはようございます」

「おう、ご苦労さん。今日はよろしゅう頼むでぇ」

社長は女性の背中に手を回し、しきりに何か言葉を掛けている様子でした。

「これが娘の小春(こはる)や。どや、べっぴんさんやろ」

小春は白いワンピースを着せられていました。

袖のところが短めで、布地から飛び出す腕はまるで、色鉛筆のように細くて伸びやかな印象でした。

長い髪の光沢も申し分なく、持ち物や服装に至るまで、十分な気配りが感じられました。ところが足もとからは、多少の違和感を貰ってしまいます。

小春は黄色に染められたハイヒールを履いていました。

原色に塗られたハイヒールが余りにも強烈なインパクトを放っているため、体に比べて足だけが、異様にでかく感じてしまうのです。

あえて言えばもう一つ、小春の目にはひどく曖昧な色が混じっています。顔を始終ひょこひょこ動かしながら、視線をあちこちに向けていました。

「ほんだら、そろそろ行こか」

今日のお出かけは、やや変則的なデートになると、事前に説明をしてもらっています。

私と小春が二人で出かけるのは間違いないのですが、どうやら社長が後からついて来るというんです。

「わしを意識すな。おらんもんやと思うたらええ。ええか、わしは空気とおんなじやぞ」

目をむいて、そんなことを言いました。

しかしどう考えても、かなり濁った空気としか言いようがありません。

ただし私にしたって、たった一人で脳に障害を抱えたお嬢さんの世話をして、何かあったらそれこそ大変です。社長が後からついて来ることに関しては、なんの不服もありませんでした。

だけどなぜ、私なんかに大金を払ってまでこんなことを頼むのか、私にはそれだけが、とにかく謎でした。

社長に催促されたので、運転席に回りました。

ドアを開けてドアロックを解除したとき、背後で妙な音がしたので、振り返って目を凝らしました。

「危ないなあ。何を慌ててるんや。ゆっくりで、ええんやで」

なんと小春は、車の後ろにぶつかったらしいです。尻もちをついているのが見えました。小春を抱き起こすために、社長がかいがいしく寄り添っています。

「ほんまに、こんなところに車を駐めやがって」

社長は眉を寄せて、険しい顔をしていました。どうやら怒りの矛先は、私のほうに向いているみたいです。

「す、すみません」

すぐに私も駆け寄りました。

「お前は早う運転席へ戻れ。わしがこの娘(こ)を車に乗せるさかい」

口調もきつく、目つきも鋭かったです。すぐに取って返して、運転席に乗り込みました。やがて助手席のドアが開いて、小春が姿を現しました。

後ろには西上社長の顔も覗いています。

「ゆっくりでええで、そこに足を掛けて、お尻をシートに乗せるんや」

愚図りながらも、社長に背中を押された小春は、ようやく腰を折って体を屈めました。

どうやら車に乗り込む準備を始めています。

ところがステップに片足を掛けたとたん、私と目が合ったので、背後へ身を引きました。小春が逃げ出すのを、社長が懸命に防いでいます。

声をあげながら、私に向かって何か、放り投げました。

「ほら、それを使って、そっちから小春を呼べ」

投げられた物が、太股の辺りで飛び跳ねました。とたんに「ちりん」と涼しい音が鳴ります。足もとに落ちた小物に目をやると、小さな鈴であることが分かりました。

拾い上げて、音を鳴らしながら、小春を呼びました。

「お嬢さん、こっちですよ」

こんなことをしている自分が何だかひどく、間抜けに思えて仕方がありませんでした。

小春のほうは鈴の音に敏感な反応を示し、飛び込むような格好で、車に乗り込みました。すぐにこちらへ体を寄せて、私の手から鈴を奪おうとします。

「鈴を渡したらあかんぞ。ここぞというときに使うんや。ポケットにでも入れて、持ち歩いたらええわ」

社長がドアの外から、私に向かって指図しています。

私は鈴を持つ手を背中に回し、小春が諦めるのをじっと待ちました。ところが思うようにはいかず、小春の顔が胸の辺りでごそごそと動き出します。

「お前、どこ触っとるんや」

どう考えても、触ってるのは私のほうじゃないと思います。

「よっしゃ、わしに任しとけ」

言うが早いか、フロントガラス付近でこんこんという音がしました。

社長が外からガラスを叩いているのが見えました。音の連続が功を奏し、ようやく小春の注意が社長のほうへ向きました。小春も社長の真似をして、内側からフロントガラスを叩いています。

「それからな、幾つか言うておくことがある」

社長はドアに片手を掛けながら、車内に頭を突っ込みました。

「なんでしょうか?」

神妙な態度で社長の言葉を待ちました。

「二時間ごとに、トイレへ連れて行け。場所が換わったら必ず、後ろにわしの姿があるかどうか、確認するんや。わしとはぐれてしもうたら、お前一人では大変なことになるで。それを忘れたらあかん」

なんだか厄介な事態になりそうな予感がしました。

私の気も知らず、小春は無邪気に笑っています。

小春の笑い声は「うふふ」から「あはは」まで、だいだい五段階くらいの音程を操りながら感情を表しています。

音程が上がれば上がるほど楽しそうに聞こえました。ただし小春はとにかく、手癖が悪かったです。

「それはまずいっすよ。お嬢さん」

ダッシュボードを開こうとしている小春を片手で押さえながら、ドアの外にいる社長に向かって懸命な笑顔を作りました。

今の状態が長く続けば、私にしたって、一オクターブ上の声で笑えそうな気がしています。

「さあ、小春ちゃん、行っといで。おっちゃんの言うことをよう聞いて、楽しんでくるんやで」

小春に話しかけるときの社長の声はまるで、豆腐を箸でぐにゃりと潰したような感じです。私に対するときの口調とは、まるで次元が違っていました。

「じゃあ、行ってきます」

私の言葉が終わらないうちに、社長はドアを閉めました。小春に向かって手を振っています。

それを見ていると、「娘は宝石だ」と話した社長の言葉を思い出しました。

小春はどうやら、フロントガラスを叩くことにも飽きたようで、大きな口を開けてあくびをしました。

しかもドアの外で手を振る社長に対しては、あくまでも無視の姿勢を貫いています。その潔い態度には、やや痛快な思いを味わいました。

さあいよいよ、私にとって、最高でその上最悪の一日が始まります。

続きは「ちりん」「こんこん」「あはは」の繰り返しに記しています。

www.8ssan.com

最後まで読んでくれて、本当にありがとうございます。

他のカテゴリーの、先頭の記事を紹介します。

ルーツ:

www.8ssan.com

わるぢえ:

www.8ssan.com

別の世界に住む家族:

www.8ssan.com

駅前第四ビルが愛した植樹:

www.8ssan.com

逆さに見える空:

www.8ssan.com

などがあります。時間があれば、ぜひ読んでください。よろしくお願いします。