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何も持たない君に、武器はもう必要ない。

裁判官山口良忠と、差別に立ち向かった沢田美喜

結果的に、他の生き方を許されなかった人たちがかつていました。

裁判官山口良忠と、差別に立ち向かった沢田美喜

夜はいつも真っ暗です。けれども我々は、やがて朝が来ることをよく知っています。だからぐっすりと眠り、ゆっくりと目覚めます。

けれどももし、朝が来ることが約束されていない場所に置かれたら、我々はいかにして生きるのでしょうか。

山口良忠と沢田美喜はまさに、朝が来るかどうかわからない環境で生き、対照的な足跡を残した人たちでした。

山口良忠が亡くなったのは昭和22年のことです。

死因は栄養失調がもとで肺浸潤(はいしんじゅん)を併発し、死亡したとあります。戦後間もないことなので無理もないと考える方もいるかもしれませんが、山口は裁判官でした。当時の人たちの中では裕福な部類です。裕福な人たちは配給だけでなく、ヤミ市で食糧を調達して飢えをしのぐことができたのです。

現在でも、それなりの地位にいる人はそれなりの場所から、それなりの金品を授受してそれなりの生活をしているものです。地方議員の多くが切手を大量購入している事実が最近、明るみに出ましたが、まさしくそれなりの地位にいる人は底辺の暮らしなどに、何の興味も持たないのが現代の通例です。

なのになぜ、山口は栄養失調などで命を落としたのか。

しかも彼が亡くなったのは弱冠33歳のときでした。裁判官としても一個人としても、まだまだこれからという年齢だったのです。

山口は東京地裁に勤めていました。

山口良忠

ヤミ売買などの経済統制違反を担当していました。

彼はひょっとすると生まれながらにして清廉潔白な人であったか、それとも帝都を襲った大空襲の地獄を間近にでも見た経験があったのか。

裁く立場にある裁判官は、決してヤミの食糧を口にしてはいけないと言い張ったのです。だから配給だけの、わずかな食糧で生活をしていました。

しかしそれも長く続かず、山口良忠は地裁の階段で倒れ、郷里で療養することになりました。やがて他の病気を併発して亡くなりました。

私はやりきれない思いを噛みしめながら、この記事を書いています。もしも山口が私の息子であったなら、誇らしくて誇らしくて大声で叫びたくなりますが、同時にあまりにも不憫で亡骸をこの手でつぶしてやりたいくらいに、悔しい気持ちでいっぱいになります。

もしも私の息子が切手の購入に明け暮れるような不届きな人間だったとしたら、恥ずかしくて恥ずかしくて顔も上げられないでしょうが、しかし私は生きていることに心から感謝します。

なにゆえに生き急いだか、山口良忠。並外れた理想を胸に抱きながら、一日の飯によって命を粗末にするなど、言語道断です。

死をもって成し遂げることなどあまりにも虚しく、感動も、それが万来の称賛であったとしても、すぐに色あせてしまうものだと分かっているはずなのに。

それを思うと、惜しい気持ちでいっぱいです。

私の思いなど、すべて蛇足ではありますが。

とにかく山口良忠は食糧難時代に法律を守り、自分を律した末に栄養失調がもとで死去しました。

「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない。自分はどれほど苦しくともヤミ買い出しなんかは絶対にやらない」「自分等の心にいちまつの曇があり、どうして思い切った正しい裁判ができようか」などと綴られた「病床日記」が没後、報道されて大きな反響を呼びました。

病の淵で断末魔の叫びをあげる山口が、そこにはいました。

沢田美喜はなんと、三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の孫です。

沢田美喜

戦前は裕福な暮らしをしていたに違いありませんが、戦後、夫は公職追放、実家は財閥解体で経済的困難を極めます。しかしこの人は強かった。さすがは岩崎弥太郎の孫です。

借金と寄付で神奈川・大磯の旧岩崎別邸を政府から買い戻して、混血児救済施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立したのです。

当時、混血児というのは社会的な問題でした。日米混血児は約5000人いたと言われています。そのうち2000人の子どもをホームに引き取り、養子縁組の仲介をした子どもの数は500人を超えました。

大きな成果を出したのです。

混血児にとっては生きていくのも難しい時代でした。当のアメリカ人でさえ、混血児は「米国の恥」といって差別していました。地元の日本人も施設設立にはかなりの反対をしたと言います。しかし沢田は混血児に対する差別に立ち向かいます。

彼女の熱意が多くの人を動かし、米作家パール・バックや黒人歌手ジョセフィン・ベイカーなどの支援を得て、成功をおさめたのです。

しかし私がここで書きたいのは、沢田美喜が残した偉業だけではありません。

彼女を駆り立てた時代のことを書き記したいのです。

沢田美喜が混血児のために一生を捧げるしかなかったのは、時代のせいです。甘い時代にはこズルい輩があふれます。絶望の時代には怒りに満ちた人間が登場します。

不安と悲しみでいっぱいだったときに、沢田美喜は果敢に自分の人生の在り方を決めました。

1946年のことです。沢田美喜は汽車に乗っていました。すると偶然、網棚の包みが沢田の膝の上に落ちてきます。中身は驚くことに、混血の赤ん坊の死体だったのです。このとき誤解を受けて、沢田は周囲から冷たい視線を浴びます。

見つめる視線は貧しく悲しく、しかも浅ましいものだったに違いありません。現在ではこのような状況ならば、すぐに事件につながります。けれども当時は違います。これが生活でした。飢えた者たちの最後の手段だったのです。

彼女は膝に乗った赤ん坊の死体を見つめながら、混血児の母に対する偏見を知り、混血児の養育を決意しました。決して沢田美喜が望んだ人生ではなかったと思います。やりきれない思いのために、立ち上がったのです。

果たして現在の日本人は立ち上がれるのか。

未来永劫、豊かではいられません。

自分だけが裕福というのも、あり得ません。みんなが幸せになるから、自分も幸福をつかみ取ることができるのです。高齢者を騙して稼いでも、やがて年をとれば若者に騙されます。

将来、貧困と飢えに苦しんだ際に、山口のように自分を律しきるか、それとも沢田のように立ち上がり戦うか。いずれもいばらの道であることは間違いなく、進むべきときに逡巡すれば、切手を買いあさるしか能のない人生が待ち構えています。

インターネットという途方もない武器を誰もが手に入れた今、それこそ一介のなんの肩書もない人間が情熱だけで立ち上がることができます。

決断する瞬間に運よく巡り合えたなら、ぜひに机を蹴って拳を突き上げてください。

山口良忠と沢田美喜、同じ年代を生き、熾烈な人生を生きた人たち。私は彼らのことを思慕してやみません。

再び、彼らのような人々が現れることを、心から願っています。

最後まで読んでくれて、本当にありがとうございました。

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