駅前第四ビルが愛した植樹

何も持たない君に、武器はもう必要ない。

知恵はみんなから《わるぢえ》と呼ばれていた

迷ったとき、私はいつも、ある女性のことを思い出します。

知恵はみんなから《わるぢえ》と呼ばれていた

彼女だったら私のように躊躇うことは決してない。最も簡単な方法で、あっさりと自分のしたいようにやるはずだ、そう考えるのです。

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カテゴリー「わるぢえ」はこの記事が始まりです。

彼女の名前は知恵と言います。

知恵は高校へ通っているとき、みんなから《わるぢえ》と呼ばれていました。

高校を退学になったのも、男子生徒を後ろから金属バットのような物で殴ったのが原因です。

だからといって知恵が暴走族だったり、不良だったりするわけではありません。タバコは体に悪いとか言って、二十歳を過ぎてからも喫わなかったし、カツアゲも性に合わないからと言い、学生のころからアルバイトに励んでいました。

援助交際をやるようなタイプでもなかったし、特定の男子と付き合っているという噂でさえ、私は今まで一度も聞いた覚えがありません。

なのにある日突然、知恵は校庭で男子生徒を襲い、先生が止めに入るまで、金属バットで相手の体を殴打し続けたのです。

校舎の窓から顔を出し、みんながその光景を眺めていました。

女子生徒は悲鳴を上げ、男子は余りのことに息を呑みました。私にしたって同じでしたが、全く躊躇することのない知恵の態度には誰もが驚いていました。

普通の人間なら額から流れる赤い血を見れば、多少の躊躇いを持つものです。ところがそういう神経が、欠落しているとしか思えない証拠を、否という程、見せられたのです。

原因にしても同じでした。「なぜ男子生徒を後ろから襲ったのか?」それを知恵が話すことはなく、理由の見当ですら私にはついていません。

だから私は、知恵のことを馬鹿なやつだと思っています。

おそらく、クラスのみんなも同じような印象を持っただろうし、先生やらPTAやら周囲の者、全員が知恵の人格を否定しました。

ところが知恵は悪びれることもなく、明くる日からまた学校へやって来ました。学校側はそれを拒否し、しばらくしてから知恵に退学処分を言い渡しました。

私から見ても、当然の処置だったように思います。

ただしそれを聞いても知恵がしおれることはなく、私たちよりもむしろ、堂々としていました。

おそらく知恵には知恵の言い分があったはずです。だからこそ自分を保っていけた、そう考えれば知恵のあの態度にも納得がいきます。

在学中はそれほど知恵とは親しくありませんでした。むしろ卒業してから、なんでも話せるような仲になったのです。

知恵の家は母親がスナックをやっていたので、高校を中退した知恵は、母親の店を手伝うようになりました。姉ちゃんまでが卒業すると、その店で働くようになったんですから、ファンの間ではしばらくその噂で持ちきりでした。

知恵の姉ちゃんは、うちの学校ではちょっとした有名人でした。その辺のいきさつは「出会いから最悪《わるぢえ》はとにかく質{たち}の悪いやつだった」で詳しく取り上げています。

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母親のスナック≪冴子≫へ、私が頻繁に通いだすのは、大学を卒業して、家の仕事を継いでからです。それでもまだ、姉ちゃん目当てに通う、高校のときの同級生がいたんですから、姉ちゃんの人気は驚くほど根強いものがありました。

私のほうは早々と、姉ちゃんのことは諦めました。

どうやら彼氏がいるみたいでしたし、まったく相手にされてないことも、否という程、思い知らされていました。

スナックでの私の待遇は、あまり芳しいものではなかったような気がします。

だいたい次のような感じです。

知恵と姉ちゃんが、向こうの客の相手をしています。ママはカウンターの奥に立ち、ときおり間の抜けた手拍子を始めたり、私に話しかけたりしていました。

私はスツールに腰かけて、両腕をべったりとカウンターの上に横たえています。左右の肘を一杯に広げ、手の甲に顎を載せながら、グラス越しに向こうを覗いていました。

中の氷が溶けると景色が変わります。それを飽きもせずに、ただじっと眺めていたのです。

しばらく動かずにいると、ひどく退屈を感じてしまい、中指の第二関節付近でカウンターの上をこんこん叩きます。まるで意味のない行動を取り、全く意味のない独り言を呟きました。

「カウンターの材質は、やっぱりマホガニーやな」

するとグラスの向こうに、突然ぬっと知恵の顔が現れます。

「あほやな。こんなもん、合板に決まってるやろ」

知恵の言い草を聞いて、何だか無性に可笑しくなりました。声を上げて笑います。知恵のやつはくすりともせず、まじめな顔をしながら後を続けました。

「偽もんや、あんたと一緒や」

「誰が偽もんやねん、俺は正真正銘のハッサンや。お前かて知ってるはずやろ」

知恵は私の顔を見ながら、唇を歪めました。

「ほんまにあんたは、あほやな。誰が名前のことを言うてんねん」

「ほんだら、いったい何の話や」

「仕事や、仕事」

「お前に俺の仕事の、いったい何が分かるって言うんや」

仕事の話と言われたら、私だってムキになります。

「あんたはな、町工場の社長とは違う。偽もんの親方や」

「お前に言われんでも、零細企業の親方で、一生ずっと我慢するつもりはない。俺の野望はな、もっとでかいんや」

ここで知恵は不気味な笑いを顔に描きました。しかもあとの言葉をもったいぶって、飲み込みました。なんだか、バカにされているような気がして、気分が悪くなりました。

すねるような調子でそっぽを向いて、姉ちゃんの姿を探します。姉ちゃんは四人の男に囲まれながら、楽しそうに笑っていました。

「鼻の下ぁ伸ばしたかて、あかんで。姉ちゃんにはな、男がおるんや。あんたも知ってるやろ」

私が姉ちゃんに気があることを、知恵のやつも十分に承知しています。

本当に、憎たらしいやつです。

ため息をついてから、俯きました。手の中にあるグラスを傾けたとたん、懐かしい思い出が蘇りました。

たいてい私たちは、こんな調子で過ごしていました。これ以上でもこれ以下の関係でもありませんでした。むしろ知恵がいなくなってから、彼女のことを親友のように扱いだしたというのが、真相です。

ただしあの百万ドルの日々がもう一度、蘇るなら、私は何を引き換えにしても構わないと、青臭いことを考えたりします。

「出会いから最悪《わるぢえ》はとにかく質{たち}の悪いやつだった」へ続きます。

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