三匹のピラニアは今ごろ、どうしているのだろうか。
もう一度会ってみたい気もするし、二度と会いたくない気持ちも多少はある。
わがままではあるけれど、いつまでもあのころのままでいてほしいと、願っている。
彼らには意地の悪いところもたくさんあったが、野犬などが現れると必ず、私の周りを固めてくれた。
健次と辰男が前に立ち、淳平は私の後ろに張りついた。
だからあのころの私は野犬であろうが、なんであろうが怖いもの知らず、彼らさえそばにいてくれたらおそらく、自分を守ってくれる、そんな風に思っていた。
だけどいつまでも、そんな関係が続いたわけではない。
「ツチノコ、探しに行くんやろ」からの続きです。前の記事から読んでもらったほうが分かりやすいですが、この記事だけでも完結しているので、問題はありません。
中学生にもなると、彼らは男の個性をはっきりと私に見せ始めた。
もう私の家の玄関には立たなくなり、そればかりか道ですれ違っても、あいさつさえもしてくれないことがたびたびあった。
テレがあったからかもしれないが、うかつに話しかけると理由もなくいじめられそうだったので、私のほうだって知らんぷりしてやった。
そう言えば、健次だけは中学生になってからも、よく私の家に遊びに来た。
河原へ誘われたり、町へいっしょに出掛けることも再三あった。そんなことをしているうちに、いつの間にか私は健次を男性として意識し、これが恋愛ではないのかと真剣に悩むことになる。
『A子、お前のことが好きや』
果たしてあの当時の健次が、そのことばの意味を本当に理解していたのかどうか、そのあたりはかなり疑わしいが、あいつはもう高校へ通っていたし、私よりもずっとその手のことには詳しいはずだった。
『おれとつきあってくれ』
健次はやはり性急なやつで、何事においてもためらうことがない。
『今までだって、私と健ちゃんはつきあってるじゃないの』
『そういうんじゃなくて、恋人になってくれというてるんや』
あのときの私は、恋人ということばにときめいたのかもしれない。
『いいよ』
健次は乱暴なやつだったが、私にだけは優しくしてくれた。今振り返ってみれば、絶えずどこかでかばってくれる、お兄さんのような存在だったのかもしれない。
つきあい始めてからは用事もないのに長電話をしたり、夜中に部屋を抜けだして、健次といっしょに河原で星空を眺めたりした。
当然そういった雰囲気の中で、あいつは私に対して、やらしいことをした。
だけど健次はそれだけが目的で、私といっしょにいたわけではなかったと思う。その証拠も私の記憶の中には、残っている。
思い出すだけでまぶたの裏が青く塗りつぶされる、そんな錯覚を覚えるほどの空に囲まれたことがある。
あの日がちょうどそうだった。
健次と私は小川に入り、腕を組んであの小さな橋を二人で潜った。橋の上には辰男と淳平が、待ちかまえている。
どこからか集めてきた花びらを両手いっぱいに載せ、橋の下にいる私たちに向かってそれを投げつけた。
なぜあんなことをしたのか、よくは覚えていないんだけど、私が言いだしたことではなかったはずで、健次の提案だったと記憶している。
今から思えばまるで結婚式のようだった。
派手さも神聖な儀式にも欠けてはいたが、思いこみだけなら本物と比べても、まったく見劣りしない。むしろ何の利害も考えない約束を、あのときの私たちは交わしたのではなかろうか。
それが反故になることも知ってはいたが、だからと言って、誰のせいでもなかったように思う。
私が高校生になったとき、健次は就職のために村を離れることになった。東京で一人暮らしをするんだと、自慢げに話していたあいつの顔を、今でもはっきりと覚えている。
上京した健次と私はしばらく連絡を取り合っていたが、そのうち縁遠くなり、やがては思い出すこともなくなった。
おそらくあのとき、健次よりも早く私のほうが相手の痕跡を消したはずで、暑中見舞いや年賀状のたぐいは私のほうから先に、出さなくなった。
忘れられる女はいやだったから、いつでも忘れる側の女でいたいと願っている。
それから私は辰男と接近し、いつの間にやらまた恋人ごっこを始めることになる。
おかしな具合ではあったんだけど、あの環境の中では一番、自然な成り行きではなかったかと思っている。
鉢の中で育つ金魚には、そこだけにしか世界はなかったのだから――。
辰男とは二年近く続いただろうか。彼もまた就職のために村を去った。それ以来、健次や辰男に会ったことは一度もない。
金魚鉢から逃げ出した二匹のピラニアは、希望だけにしか目が向かず、同じく飛び出した金魚のことなど覚えているはずがなかったし、金魚のほうにしたって同様で、こうして故郷の土を踏むことがなければ遠い昔のことなんて、記憶の片隅にしまったままにしておいたに違いない。
私はほんの少したそがれて、それから道ばたの石ころをけり上げた。
そのとたん、急に思い立ってバッグの中を探ってみる。そこから赤い表紙の手帳を取り出した。この手帳はかなり古いもので、確か小学生のころ、駅前の雑貨屋で購入した覚えがある。
当初はもっと鮮やかな色をしていたが、今では手あかに埋もれて赤黒く変色している。
表紙をめくると落書きのページが何枚か続き、そのあと新山健次という名前が現れた。その下には『正』の文字が二つあり、続いて棒線が二本、引いてあった。
つまり健次とは、十二回セックスをしたということになる。
それを見ていると私はなんだかおかしくなって、大きな口を開けて笑い転げてしばしの間、かつての痴態を思い描いて楽しんだ。
確かにB子がいうとおり、私はきちょうめんと言うよりも、間違いなく変なやつだ。
いっとくけど、この数字は正確無比である。
次のページにうつれば西条辰男という名前が出てくるのだから、また笑う。
その下の回数を数えてみると、二十四回だった。その次が例のやつだ。あいつとの回数は数えるのがおっくうになったもんだから、途中でやめた。
私は身勝手で騒がしくて、そのくせ人見知りでおくびょうだ。
なのに凶暴で自制心がなくて、それにもまして姑息で一人だとすぐに寂しがる。
時折そんな自分がいやでいやでたまらなくなるが、さりとて自分をやめる方法なんて存在しないのだから、仕方がない。
自分が自分でなくなるというのは、自分以外の器の中に閉じこめられるような気がして、よっぽど怖い。
その辺にいる、バッタやカブトムシの中に監禁された自分の意識を想像すると、ただそれだけのことで、恐怖のために皮膚の表面が泡だってしまう。
自分でなくなった自分はもはや、絶対に自分ではないと、私はきっぱりと言い切れる。空飛ぶバレーダンサー、ニジンスキーのように、自分という単語に終始、惑わされているのかもしれない。
私はそれを、いたく思い知らされた。
長くなったので次の記事「穴の開いてないちくわ」へ続きます。
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